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ごく初期のエアラインでは、キャビンークルーは搭乗していなかった。
飛行機酔いした乗客を介抱したり、飲み物のサービスを行うのは、コパイロット(副操縦士)の仕事だったのだ。
キャビンークルーが空の旅にはじめて登場したのは、一九二二年四月二日のこととされている。
この一日、英国のデイムラー・エアハイヤー(間もなくデイムラー・エアウェイズに変更、後のインペリアル航空)が、ロンドン~パリ線に八人乗りのデハビランドDH34複葉旅客機を初就航させた。
この時に乗客係として搭乗したのが、一四歳のジャックーサンダーソンと二人の少年だった。
彼らが世界で最初の客室乗務員だ(サンダーソンは二三年に墜落事故で死亡)。
ジャックのような客室乗務員は当時キャビンーボーイと呼ばれた。
客船のキャビンーボーイや、ホテルのペルーボーイからの連想だったようで、事実彼らはペルーボーイと同じようなユニフォームを着て乗務した。
とはいっても、デイムラー社はまだ食事や飲み物のサービスをしておらず、乗降時に乗客に手を貸すぐらいが仕事で、ほとんどお飾り的な存在だったようだ。
機内での食事サービスは、一九一九年にはじまる。
前述のように、そのサービスは当初コパイロットが担当した。
少年を使うようになったのは、客船やホテルに例があったのと、何よりその小柄で軽い身体に理由があった。
当時の旅客機はキャビンが狭く、また離陸重量、運航重量の制限が厳しく、乗客も搭乗前に手荷物とともに体重を量られたのだった。
その後、クーリエ、フライトースチュワードなどといった、さまざまな名前で呼ばれる客室乗務員が搭乗するようになる。
クーリエというのは添乗員、旅行の世話人といった意味、スチュワードというのは、もちろん客船の乗客係から借用した呼称だ。
空の旅草創期のキャビンークルーたちについて触れてみよう。
飛行船には一九一〇年代からスチュワードが乗務していた。
ツェッペリン飛行船(V章で詳述)には、ダイニングルームが完備していて、食事のサービスが行われていたからだ。
一九二七年、フランスのエールーウニオン(エールーフランスの前身のひとつ)が、リオレーエーオリヴィエ212という当時としては豪華な複葉双発旅客機を、パリ~ロンドン線に就航させた。
これは、キャビンにコー席を備えたレストラン機たった。
翌年には、ゆったりとしたコー席のシートと大きな手荷物室を装備した、L’e0213が就航する。
その手荷物室はバーに改造され、専属のスチュワードが搭乗した。
エールーウニオンではこれを、レヨンードール(黄金の光線)サービスと呼んだ。
一九二八年には、ドイッチェールフトハンザ(DLH)も、スチュワードーサービスをはじめている。
ユンカースG31(全金属製の三発単葉旅客機、ー五人乗り)のベルリン~ウィーン線で、食事のサービス係としてウェイター出身のアーサー・ホフを雇い入れたのだ。
なおG31はギヤレー(機内厨房設備)を備えていて、ルフトハンザでは「フライングーダイニングカー」と命名、ホフに温かい食事をサービスさせた。
アメリカでは一九二六年に、はじめてキャビンークルーが登場した。
これは、スタウトーエアーサービセズ(ユナイテッド航空の前身のひとつ)が、エアリアルークーリェの名で、フォードートライモーター(一五人乗り)のデトロイト~グランドラピッド(ミシガン州)線に搭乗させたものだ。
同じ年にTAT(トランスコンチネンタルーエアートランスポート、TWAの前身のひとつ)もクーリエを搭乗させている。
エアラインに出資した鉄道会社、客船会社など実業家の息子たちが、言わば帝王学修行のひとつとしてこの職に就いた。
トランスコンチネンタルーアンドーウェスタンーエア(TWA)となった三〇年以降は、ファーストーメイトの名で呼ばれた。
メキシコでも、メヒカーナ(メキシカン)航空がフォードートライモーターにスチュワードを搭乗させている。
徹底した接客教育ここで当時のスチュワードの様子について触れてみたい。
パンアメリカン航空は、一九二九年にフォッカーF10、続いてシコルスキーS-40飛行艇(三八人乗り)にスチュワードを搭乗させ、カリブ海、南米線を運航した。
特に三〇年代に積極的に導入した飛行艇による空の旅(それは機内サービスを売る旅でもあった。
V章で詳述)において、スチュワードは欠かせない存在であり、またスチュワード像を作ったのもパンナムだった。
パンナムークリッパー(使用機にクリッパーの愛称を付けるのがパンナムの伝統)のスチュワードは、機敏で容姿の良い若者の代名詞だったのだ。
パンナムのスチュワードの採用条件は、まず男性のアメリカ人で、英仏を含む三か国語に堪能、高校卒以上の学歴を有し、一流のレストラン、ホテルまたは客船での接客や給仕の経験があり、人柄がよく、接客の適性を備えていることとされた。
さらに一律さを求めて、年齢は二三歳から三二歳まで、身長は五フィート五インチから九インチ(約二(五~一七五センチメートル)、体重は一五〇ポンド(約六八キログラム)以内と制限されていた。
従ってスペンサージャケットや、ダブルのダークスーツに身を包んだ彼らが、一列に並んで乗客を迎える時、そのラインは見事に統一されていた。
当時はまだ、キャビンークルーのための訓練コースなど、一般的には整備されていない時代だった。
しかし、クリッパー飛行艇のスチュワードは、六〇日間にわたる徹底した教育・訓練コースを通過する必要があった。
まず港のクルー(ビーチングークルー)に、クリッパーの係留作業、ボート漕ぎ、水泳、救命艇の運用を学ぶ。
次に医療スタッフに応急手当を学んで、運航部門に向かう。
ここでシニアースチュワードから、乗客リストの作成、手荷物のチェック、郵便や貨物のチェック、重量報告書の作成、ベッドメイク、ギャレーの使い方、緊急用品の使い方、そして乗客を歓迎し、快適に過ごしてもらうための接客術を叩き込まれる。
豪華さを誇る飛行艇の旅ゆえ、乗客にはセレブリティ(有名人)や上流階級、富裕層が多かったところから、その接客マナーの教育は徹底していた。
なかでも「ゲーブルーコース」と呼ばれる、上客のための、手荷物のハンドリングや接客の練習をする訓練コースがあった(ちなみにゲーブルとは、ハリウッドスターのクラークーゲーブルのこと)。
六〇日間の訓練が終わると、やっとカリブ海ルートに乗務が許され、そこで経験を積んではじめて、一人前のパンナムースチュワードとして、華やかな太平洋、大西洋ルートに搭乗できるのだった。
さまざまな呼称で呼ばれたキャビンークルーだったが、それはすべて男性だった。
航空輸送の黎明期から二〇年代にかけて、空は男の仕事場と考えられていたためだ。
フライトークルーはもちろんキャビンークルーも、男性で占められていたのである。
世界最初のスチュワーデス世界ではじめての女性キャビンークルー、スチュワーデスが誕生したのは、一九三〇年五月一五日のこと。
スチュワーデス第一号は、エレンーチャーチという二五歳の女性だった。
彼女はまた、スチュワーデスの”生みの親”でもある。
アイオワ州の田舎町クレスコ出身のエレンは、一九二〇年代の空の英雄だったバーンズドーマー(曲技飛行を見せたり、体験飛行をさせたりしながら田舎を回る巡業飛行士)に憧れ、空を飛ぶ魅力に魅せられた。
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